2012年にアンドロメダ星人によって太陽フレアの直撃が回避されていた
2018-07-18 19:14:25
アセンションに関心を持っている人の大部分が2012年に期待していたと思うのですが、何故か何も起きなくて、「騙された」と思った方も多いのではないかと思います。
コズミック・ディスクロージャーを主催しているデイビッド・ウィルコックさんも、2012年に何も起こらなかったので、インターネットで叩かれたと、最近告白していました。
最近 購入した、ラムサ様のCD「エイリアンとUFO 暴君達」を聞きましたら、2012年に、我々地球人が知らないところで何が行われていたのか、初めて知りました。
全文書き起こしたのですが、全文掲載すると怒られるので、2012年に関する箇所だけ掲載します。
「ラムサ:多くの人々が『2012年には何も起こらなかったじゃないか』と言ったが、太陽が何をしたか見ただろうか?
生徒:ええ。
ラムサ:我々が介入して、あの巨大で破壊的な太陽のコロナ質量放出を遅らせたのだ。
(タケ:CDに付いてきた説明書をカッコ内に転載します。)
(コロナ質量放出:コロナ質量放出(Coronal Mass Ejection)はCMEとも呼ばれ、太陽から突発的にプラズマの塊が放出される現象のこと。
2012年には、太陽の活動が極めて活発であり、大規模な太陽フレア(太陽面爆発)が何度も起こった。
NASAが発表した2012年3月12日付の太陽の写真には、巨大な三角形の黒い影が写っている。
参考URL: http://ooruri777.seesaa.net/article/270907999.html
太陽の大きさを考えると、この三角形の影がいかに巨大であるかがわかる。
この巨大な三角形が現れる直前の3月9日~3月11日の映像には、太陽のすぐ近くで太陽のプラズマを吸い取っているように見える巨大な球体(1つ又は2つ)が写っている。)
参考URL:
https://youtube.com/watch?v=YnzZLNsSGyY
http://machiukezoo.biz/archives/7274
http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2114830/Mysterious-planet-sized-Death-Star-captured-video-refuels-surface-sun.html
二日間遅らせることによって、地球はそれによって直撃されなくて済んだ。
我々がそれを起こしたのだ。
そこから出てきた我々の宇宙船を見てみなさい。あなたはそれについて調べる必要がある。
ミュージックよ、準備をしておくことは今でも必要である。
(準備をしておくことは今でも必要である:ラムサは、我々が激動の時代を生き抜くことができるように、いくつかのものを準備しておくようにずっと言い続けている。
現在起こっている地球の変化とそれを生き延びるための準備については、日本語版CD「変化の風III」を参照。
この講義に含まれる極めて多くの情報は、今でも有効である。)
地球は極めて酷い問題を抱えている。
地球の周囲の壁はなくなる必要がある。
そうなるだろう。
地球は焼かれることになるが、この情報は表に出始めている。
というのも、我々は今や真実を知ることができるからだ。
あなた方の時間で、極めて長い期間にわたって、私は膨大な数のランナーを送ってきたが、それらは人々を目覚めさせて、彼ら自身の神、彼ら自身の自由意志に気付かせるためのものだった。
それが目的である。それは自由意志である。
それは降参するか、または決して諦めないかのどちらかを示すものである。
決して諦めないのは強い意志であり、降参するのは弱い意志である。分かるだろうか?」
このブログでは、2012年の集団アセンションは、太陽フレアによって引き起こされるのではないかと予想していたのですが、
2012年の太陽フレアによるアセンション
アンドロメダ星人の宇宙船が太陽からガス抜きしていなければ、NASAの科学者や、エド・デイムス少佐の遠隔透視や伊勢白山道の予言の通りに、2012年に地球はコロナ質量放出を直撃されていたみたいですね。
今の段階の地球人だと、ほとんど生き残れないから、アンドロメダ星人が介入して、地球の10倍の大きさの宇宙船を2つ使って、太陽のエネルギーを吸い取って、助けてくださったそうです。
コーリー・グッドさんの情報では、スフィア・ビーイング・アライアンスが、地球人の肉眼には見えない球体を太陽系に沢山配置することによって、太陽フレアの直撃を遅らせてきたということでしたが、まさかアンドロメダ星人の宇宙船が太陽からガス抜きして、地球を守ってくださっていたとは知りませんでした。
燃え盛る太陽に直接介入して、ガス抜きするなんて、そんなことができるのは宇宙広しといえども、アンドロメダ星人だけではないでしょうか?
普通の宇宙人の通常のUFOでは、太陽に近づいたら燃えて蒸発してしまうでしょう。
そもそも、地球の10倍の大きさの宇宙船なんて、作ることは不可能ではないでしょうか?
まさに全能の力を持つ神々のなせるわざです。
「地球の周囲の壁はなくなる必要がある』
というのは、地球の磁場が弱くなって、ヴァン・アレン帯が無くなるということだと思います。
今までは、ヴァン・アレン帯によって、宇宙線が遮られてきましたが、それが無くなることによって、宇宙線が地球上に届くようになり、その宇宙線によって、ジュワル・クール大師の予言のように、エーテルの膜が破壊され、物質界とアストラル界が融合して、我々は半霊半物質の体にアセンションするのだと思います。
参考サイト:地球の磁場は、予想を超えるスピードで弱まり続けている
オオルリのブログ
http://ooruri777.seesaa.net/article/270907999.html
タケのアセンション情報ブログ
https://ameblo.jp/kokuufunsai/entry-12391686608.html
太陽のプラズマを吸い取っているように見える巨大球体
2012年3月,太陽にあらわれた三角形の影
■
古代マヤの予言者たちはすでに9世紀の時点で、それから600年以上も未来の歴史的大事件、西暦1492年のコロンブスのアメリカ大陸発見と、それに続くマヤ・アステカ文明の崩壊を正確に予言していました。
信じ難いことですが、古代マヤの地で
「白人の到来」
が予言されていたことについては様々な証拠資料が存在し、世界中すべての考古学者が認めている歴史学的に証明されている事実です。
そして、古代マヤの予言者たちはこうも予言していました。
「この世界は13バクトゥンが完了する日に滅び去るだろう」
バクトゥンとはマヤの暦で使われた時間の単位で、
1バクトゥン=14万4000日
です。その計算にしたがうと、右記の言葉はこうなります。
「この世界は西暦2012年12月21日の金曜日に滅び去るだろう」
何とも恐ろしい予言です。果たして本当にこの世界は、西暦2012年12月21日(金)に滅び去ってしまうのでしょうか。
そもそもいったいなぜ、古代マヤの予言者は、コロンブスのアメリカ大陸発見を正確に予言することができ、しかも、世界の滅亡までも予言しているのでしょうか。
そして、それらの予言の基となっている『カレンダー・ラウンド(マヤの暦)』とは、いったいどんなものだったのでしょうか。
答えはすべて、古代マヤ文明そのものに隠されています。
雑学の世界
http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den097.htm#karukini
■マヤ神話
一般に、マヤ文明の広範囲に派生した固有の宗教的神話のことを指す。
この神話はメソアメリカ人によって約三千年以上前から9世紀にかけて信仰されてきた。
他の神話の例に漏れず、世界の誕生、神々が人間を創造する話などが伝わっている。
この神話には方角、色、数字、星、カレンダー、食物の収穫等についての重要性が示されている。
大半はスペインによる征服の歴史の中で消失したため、現在明らかにされているマヤ神話は断片的である。
生け贄の人間から心臓をえぐり出し、祭壇に供え、後に神官が生け贄から剥ぎ取った皮を着用して舞踏する儀式が有名。
あらゆるものに神を見いだす汎神的な世界観をもち、世界の四隅に住み異なる姿を持つ神チャク(Chac)などのほか、13の天に住む13の神、9の暗黒に住む9の神がいる。また自然のエレメント(元素)、星や惑星、数、作物、暦や日時などに固有の神々がいる。現在のグアテマラあたりにいたとされる原住民族キチェー族(Ki'che'orQuiché)に伝わるマヤ創世神話にポポル・ブフ(PopolVuhorPopolWuj)がある。それによれば、世界はマヤの聖域の神々の意思によって無から生み出されたとされる。人は泥で作られ、また木で作られたが失敗であり、やがてトウモロコシで作られたものが神々を敬うという当初の計画にそう出来となった。それが銀細工師や宝飾師、石工や陶工である。創世神話のあとポポル・ブフの物語は伝説の双子の英雄フンアフプー(Hunahpu)とイシュバランケー(Ixbalanque)の物語、地底世界シバルバー(Xibalba)の主たちを退治する冒険譚を語る。この創世神話と英雄譚がマヤ神話の焦点であり、しばしばマヤ芸術の題材として見いだすことができる。(ローマ字表記はスペイン語による)
創世神話
マヤの神話では、テペウ(Tepeu)とグクマッツ(トルテカ神話及びアステカ神話のケツァルコアトル神Quetzalcoatlに相当)が創造主、創世主、始祖とされている。彼らが最初の「在りて在る者」であり、賢者と等しい賢明さを兼ね備えた者であったとされる。またカクルハー(雷)・フラカン(Huracan一本足の意)あるいは単に「天の心」と呼ばれる者が存在しテペウと同一視、または分身とされる。フラカンは嵐と雷を象徴する神格とされている(ハリケーンの語源)。
テペウとグクマッツは集まりを持ち、彼らを崇拝することのできる種族を作らなければならないと合意する。テペウとグクマッツの分身ともいえる「天の心」及び「地の心」によって実際の創造をおこなわれる。大地が作られ、動物が備えられる。人間ははじめ泥で作られるのだが、すぐに壊れてしまう。別の神々が召集されて、つぎは木で作られるが、これは魂を持たない代物であった。そうして人はトウモロコシから作られ神々とその行いは完成にいたる。
大地と動物の創造
「ツアコル」と「ビトル」又は「テペウ」と「グラマック」という二人の創造主がおりました。彼らは最初に大地を呼び出して山・谷・川を作り、そして動物や鳥を作りました。
人間の創造
今度は創造主を養ってくれる人間を造ろうとしました。最初は土から造りましたが、柔らかい上に水に解けてしまいます。歩けないし子供を産むこともできません。これではだめだと破壊してしまいました。二回目は木で人間を造りました。前と違い子供を産むことも出来き、言葉を話したのですが魂がありませんでした。魂がないので神に感謝しませんでした。これではだめだと大水で破壊されてしまいました。三回目は、男は豆・女はい草で造りましたが、神と話すこともできない上に考えることが出来ないので破壊されました。このときの生き残りが猿なのです。第四回目は白と黄色のトウモロコシで造られましたが、神と同じになってしまいました。人間が神と同じ能力なのはいけないので破壊されました。このように人間は4度造られ4度破壊されたのです。
太陽・月・星
第4の破壊からしばらく後に、双子の神「ファンプー」と「イシュパランケー」が様々な悪と闘い、地下の闇の国「シバルバー」での試練と冒険を終えて、二人は光に包まれて天に昇っていき1人は太陽に、もう1人は月となり、天地に明かりがもたらされました。双子の神に倒された「光り輝くヴクブ・カキシュ」の手にかかり命を落とした400人の若者も星に姿を変えました。
五度目の人間の創造
再び「ツアコル」と「ビトル」により人間創造が始まります。ジャガーとコヨーテとオウムとカラスから人間が造られました。その人間は身動き1つしないであらゆることを知ることが出来ました。神は人間の野心や驕慢を恐れ、その目に霧を吹きかけて曇らせました。これにより獣にはない知性があるけれども、ものを見る能力が劣る今の人間ができました。そうして、マヤの人々は5度目の破壊を恐れたのです。その日を知ろうと天文が発達し三種の暦が造られ、その日が来ないように儀式が行われたのです。
■マヤ文明1
メキシコ南東部、グアテマラ、ベリーズなどいわゆるマヤ地域を中心として栄えた文明である。メソアメリカ文明に数えられる。
大規模な都市遺跡が築かれ始めたのは、形成期後期 (先古典期後期)からで、いわゆる「中部地域」で、現ベリーズのラマナイ(Lamanai)、グアテマラのペテン低地に、ティカル、ワシャクトゥン、エル=ミラドール(El Mirador)、ナクベ(Nakbe)などの大都市遺跡が建設され、人口の集中が起こり繁栄した。エル・ミラドール、ナクベ、カラクムなど大都市では、古典期を凌ぐ大建造物が、紀元前400年以降に建てられたことが分かってきた。
開花期の古典期(A.D.300-900)にはティカル(Tikal)、カラクムル(Calakmul)などの大都市国家の君主が「優越王」として群小都市国家を従えて覇権を争った。「優越王」であるティカルとカラクムルの王は、群小都市国家の王の即位を後見したり、後継争いに介入することで勢力を維持した。各都市では、巨大な階段式基壇を伴うピラミッド神殿が築かれ、王朝の歴史を表す石碑(stelae)が盛んに刻まれた。
古典期後期(A.D.600-900)の終わり頃の人骨に栄養失調の傾向があったことが判明しているため、焼畑(ミルパ)農法や建造物に使用する漆喰を造るために、森林伐採を行い続けたため、地力の減少によって食糧不足や疫病の流行が起こり、それによる支配階層の権威の失墜と、数少ない資源の奪い合いによって戦争が激化したことが共倒れを招き、衰退に拍車をかけたと考えられている。この時期にはテオティワカンの影響が消えたことやティカルにかわって多くの小都市国家が発展した。特に8世紀はマヤ文化の絶頂期であるといえる。この期の壮麗な建築物、石彫、石細工、土器などの作品にマヤ文化の豊かな芸術性が窺える。また、天体観測に基づく暦の計算や文字記録も発達し、鹿皮や樹皮を材料とした絵文書がつくられた。碑文に刻まれた王たちの事績や碑文の年号表記などから歴史には高い関心を持っていたことが推測できる。都市は祭事の場であるだけでなく市の立つ通商の場でもあった。通商はメキシコ中央部の各地や沿岸地方とも交渉をもちいくつかの商業都市も生まれた。
なお、古典期マヤ文明は金属を持たず、基本的には新石器時代に入っていたといえる。しかし、9世紀頃から中部地域のマヤの諸都市国家は次々と連鎖的に衰退していった。原因は、遺跡の石碑の図像や土器から、メキシコからの侵入者があった(外敵侵入説)、北部地域に交易の利権が移って経済的に干上がった(通商網崩壊説)、農民反乱説、内紛説、疫病説、気候変動説、農業生産性低下説など有力な説だけでも多数ある。しかし、原因は1つでなくいくつもの要因が複合したと考えられている。
一方、古典期後期からユカタン半島北部などを含む
「北部地域」でウシュマル(Uxmal)、チチェン=イッツァ(Chichien Itza)
などにプウク式(Puuc Style)の壁面装飾が美しい建物が多く築かれた。
標式遺跡は、グアテマラ、ペテン低地に所在するティカルの北方のワシャクトゥン遺跡である。
下記のような先古典期中期から古典期後期までの時期区分名が用いられる。
先古典期中期後半(マモム期)
先古典期後期(チカネル期)
古典期前期(ツァコル期)
古典期後期(テペウ期)
他の遺跡にも独自の時期区分がありつつも比較検討のためにワシャクトゥンの時期区分名が使用される。
ただし、ユカタン半島北部やグアテマラ高地の遺跡には適用されない。
後古典期(A.D.900-1524)には、マヤパン(Mayapan)やコスメル島(Cozmel Island)が、カカオ豆やユカタン半島の塩などの交易で繁栄した。
統一国家を樹立することなく、各地の都市国家が合従連衡と興亡を繰り返し、16世紀、スペイン人の侵入を迎えた。
1697年最も遅くまで自立を保っていたタヤサルが陥落、マヤ圏全域がスペイン領に併合された。
■マヤ文明の特徴
青銅器や鉄器などの金属器を持たなかった
生贄の儀式が盛んであった
車輪の原理は、土偶などの遺物に出てくるにもかかわらず、実用化しようと考えていなかった
牛や馬などの家畜を飼育しなかった
とうもろこしの栽培のほかにラモンの木の実などが主食だった
焼畑(ミルパ)農法や段々畑・湿地で農業を行った
数学を発達させた(二十進法を用い、零の概念を発明した)
文字種が4万種に及ぶマヤ文字を使用していた
持ち送り式アーチ工法など高度な建築技術を持っていた
極めて正確な暦を持っていた(火星や金星の軌道も計算していた)
多くの文明は河川の水の恵みにより発展してきたが、マヤ文明はセノーテとよばれる天然の泉により発展した
農業技術については、段々畑で作物を作り、湿地では、一定の間隔に幅の広い溝を掘り、掘り上げた土を溝の縁に上げその盛り土の部分にカカオなど農作物を植えた。定期的な溝さらえを行うことにより、肥えた水底の土を上げることによって、自然に肥料分の供給をして、栽培される農作物の収量を伸ばすことができた。この湿地利用によく似た農法としてメキシコ中央部にはチナンパという湿地転用農法があるので、その方法を移入した可能性を指摘する研究者もいる。
数字は、点(・)を1、横棒(-)を5として表現したり、独特な象形文字で表現された。
■マヤのカレンダー
マヤの人々は天体観測に優れ、非常に精密な暦を持っていたとみられている。
1つは、一周期を260日(13日の20サイクル)とするツォルキンと呼ばれるカレンダーで、宗教的、儀礼的な役割を果たしていた。もう1つは、1年(1トゥン)を360日(20日の18ヶ月)とし、その年の最後に5日のワイエブ月を追加することで365日とする、ハアブと呼ばれる太陽暦のカレンダーである。
ワイエブ月を除いたハアブ暦(360日)とツォルキン暦(260日)の組み合わせが約13年(13トゥン)ごとに一巡する。
これをベースとして4サイクルの約52年を周期とする 。
この他、より大きな周期も存在していた。このようなカレンダーの周期のことを
カレンダー・ラウンド(rueda calendárica)
という。 また、紀元前3114年に置かれた基準日からの経過日数で表された、
長期暦(ロング=カウント;Long Count)
と呼ばれるカレンダーも使われていた。
石碑、記念碑、王墓の壁画などに描かれていて、年代決定の良い史料となっている。
この暦は次のように構成されている。
キン(1日)
ウィナル(20キン)
トゥン(18ウィナル、360キン)
カトゥン(20トゥン、7200キン)
バクトゥン(20カトゥン、144000キン)
ハアブ暦の閏については、そのずれを調整しなかったが、新月が全く同じ月日に現れる
メトン周期(6939.6日)
を把握していたことが、ドレスデン・コデックスやコパンの石碑に
19.5.0.すなわち360×19トゥン+20×5ウィナル=6940キン(日)
の間隔を記載することによって実際には季節のずれを認識していた可能性や
パレンケの太陽の神殿、
十字架の神殿、
葉の十字架
の神殿の彫刻に長期暦の紀元の記載とハアブ暦と実際の1年の値である
365.2422日
との差が最大になる
1.18.5.0.0.(長期暦の紀元から約755年経過した時点)
の記載があり、これもマヤ人が1年を365日とした場合の季節のずれを認識していた証拠とも考えられる。
かつては、現在通用しているグレゴリオ暦の365.2425日(400年間に97日の閏日)よりも真値に近い、
365.2420日
がその答えとされていた。
これは、化学工学技術者のジョン・E・ティープルが1930年代に唱えた決定値理論と呼ばれる説で、アメリカのマヤ学の権威とされたエリック・トンプソンが認めたため、現在でも流布している説であるがその誤りが判明している。
カラクムル遺跡にある
15回目のカトゥン(9.15.0.0.0.,731年)
を祝う石碑が7本あるが、その1年前に修正がなされており、太陽年を意識して201日分を加えている。
これを太陽年を最初から想定していたとすると1年を
365.2421日(3845年間に931日の閏日)
としていたことになる。
また、キリグアの785年を刻んだ石彫で、212日を追加する修正が見られる。
グレゴリオ暦では、215日であり、太陽年で正確に計算すると214日の誤差となる。
これを太陽年を想定した1年の日数とすると
365.2417日(3898年間に942日の閏日)
になる。単純に考えれば肉眼のみの観測で非常に精度が高い値で修正を行っていること自体は驚くべきであるが、
実際にはグレゴリオ暦のように暦の1年を意識して計算しているものではないため、精度の高い暦を使っていたということはできない。
■マヤ暦の終わり
ニューエイジ関連の書物ではマヤの長期暦は
2012年の冬至付近(12月21日~23日)
で終わるとされ、その日を終末論と絡めた形でホピ族の預言も成就する、フォトンベルトに突入する時期としているものが多い(2012年人類滅亡説)。
しかし、フォトンベルトの存在は皆無に等しく、フォトンベルト関係の予言は非常に信憑性にかけた予言であり、さらにマヤの暦は現サイクルが終了しても新しいサイクルに入るだけで永遠に終わらないという見方もあり、多くのマヤ文明の研究家たちも終末説を否定している。
この他、カール・コールマンの計算によると
「マヤ暦の最終日は2011年10月28日」
との説もあった。
■マヤ文明2
マヤ文明は、考古学者の間では
「謎の古代文明」
と呼ばれています。マヤとはメキシコ先住民の言葉で「周期」、マヤ文明とは「時間の文明」という意味です。
この奇妙な名を持つ文明をつくり上げたのは、自らを
「マヤ=時の民」
と称した人々(メキシコ・グアテマラ先住民のマヤ族)でした。
そんな不思議な名前をもつ民族・文明は、世界中どこを探してもマヤ以外には見当たりません。
しかし、残念なことに、マヤ文明の存在が世界に知られ始めたのは19世紀末。本格的に研究されるようになったのは、20世紀後半に入ってからです。
しかも、古代マヤ文明が栄えたメキシコからグアテマラ・ホンジュラス・サルバドールなどの中米一帯は、熱帯性多雨気候という発掘不向きの場所のうえに、昔から政府軍とゲリラによる内戦がつづいていたので、研究が思うように進んでいないのです。
そのために専門の考古学者たちにさえ、マヤ文明についての詳しいことはわかっていません。
では、古代マヤ文明とはいったい、どんな文明だっのでしょう。
■
巨大なピラミッドを建造した。
ゼロの発見に象徴される高等数学をもつ。
天文学に優れていた。
考古学の常識を超えた、古代マヤ文明のすごさとは!?
■
紀元前2600年ごろ、いまから約4600年前のこと。中央アメリカ南部で誕生し、それから数千年にわたってメキシコ南部から中米南部までの広大な範囲にわたって栄え、ヨーロッパ人がアメリカ大陸に到達する前に、大密林の中に忽然と姿を消した「謎の古代文明」――それがマヤ文明です。
ではなぜ、マヤは「謎の古代文明」と言われるのでしょう。
理由は山ほどあります。
1つはいまも説明した通り、マヤ文明がどのように誕生し、熱帯ジャングルの中で栄え、なぜ繁栄の絶頂で突然この地上から消え失せてしまったのか、いまもってわからないためです。
2つめはマヤ文明が
「考古学の常識を超えた古代文明」
だったことです。そして3つめは、これがもっとも重要なのですが、古代マヤ人たちが高等数学と高度な天文学によって作り上げた暦(マヤ・カレンダー)を使って
「予言のテクノロジー」
を操っていたことです。
■
考古学では、大文明が誕生する必要条件として、次の3つをあげています。
すなわち、大河の辺(ほとり)という地理的条件、
クルマ(車輪)の発明、
金属(鉄)の使用
の3つです。
四大古代文明(エジプト、中国、インド、メソポタミア)はいずれも、その3つの条件を備えていました。
しかし、マヤ文明にはそのどれ一つなかったのです。
まさに、考古学の常識を超えた古代文明です。
マヤ文明が誕生した中央アメリカ・メキシコ南部の大密林地帯――そこは熱帯雨林が地平線の彼方まで広がり、地上には密生する樹木が生い茂り、木の枝やつる草が人の行く手を阻む、昼なお暗いまさに緑の魔境です。そこには石材や農作物を運ぶ船が走れるほどの大河などはなく、運搬車が密林の中を通ることは不可能だったためか、車輪が使用された形跡はありません(荷車を模した古代のオモチャは発掘されていますが)。また、鉄などの金属が製造された痕跡も、見つかっていないのです。
にもかかわらず、古代マヤ人たちは、その緑の魔境の大地に四大文明に優るとも劣らぬ大文明を築き始めました。
巨大ピラミッドの建造、華麗で壮大な神殿都市、ゼロの発見に代表される高等数学、20世紀の科学水準に匹敵する高度な天文学など、マヤが発明したテクノロジーの数々はいずれも、四大文明以上の科学水準を誇っていました。
マヤ文明がどれほど壮大で華麗なものだったかは、その古代遺跡からも明らかです。
たとえば、グアテマラの熱帯密林の中にいまなお雄姿を残すティカル遺跡。
紀元前600年、いまから2600年前から人が住み始め、紀元8世紀に絶頂期を迎えたマヤ最高の神聖都市ティカルは、その規模でも華麗さでも当時のヨーロッパ文明をはるかにしのいでいました。
ティカルは都市と郊外と田園の3層からなり、その総面積は130平方キロ。
周囲を濠と土塁で守り、10万人にものぼる人が暮らしていたと考えられています。これはルネッサンス期(15世紀)のヨーロッパ大都市をしのぐ規模です。
ティカルは湖からも河からも遠かったので、この人口を賄うために13個もの人口貯水池がつくられました。
その中心に華麗な都があったのです。大小3000個もの真紅のピラミッド群と石像建築群が林立する都市。
壮大な球技場とそれを囲む3つの高層アクロポリス。
ピラミッドの石段の数も巨大建築物の色も形も、すべてマヤ的宇宙の法則によって決められていました。
その都市の真ん中に、ひときわ巨大な5基のピラミッドが天を突くようにそびえ立っていました。
その第四ピラミッドの高さは70メートル。巨大地震の多発地帯として知られるグアテマラでは、地震と火山噴火によって過去に何度も首都が破壊され、耐震構造の関係から、高さ30メートル以上のビルがありません。そのため、21世紀を目の前にしたいまでも、7~8世紀ごろに造られたこの第四ピラミッドがグアテマラでもっとも高い建築物なのです。このピラミッド建造技術を見ただけでも、マヤがいかに優れた文明だったかわかるでしょう。
メキシコ南部から中米南部までの広大な範囲にわたって栄えていたマヤ文明には、このような大都市がいくつもありました。
考古学者の推定では、その総人口はメキシコのユカタン半島に住んでいたマヤ低地族だけで500万人。
マヤ文明が支配していた地域全体では最盛期には1000万人以上。
2000万人から6000万人の人々が暮らしていた、と主張する考古学者さえいます。
こんな人類史の奇跡としか思えないほどの素晴らしさゆえ、マヤ文明の誕生の謎については様々な見解が述べられてきました。
「マヤ文明は、古代ムー大陸の一部だったのだ」
「マヤ文明は、アトランティス大陸の生き残りがつくり上げたのだ」
「マヤ文明は、旧約聖書に記されているソロモン王の11人の使徒たちがつくり上げたのだ」
「マヤ文明のような奇跡的文明は、遠い宇宙から飛来した宇宙人にしかつくりだせない」
などといったものです。これらの説の一つひとつについて、ここで言及するつもりはありません。ただ、一つ確かなことは、マヤ文明は多くの人々の想像力をかきたてずにはおかない、謎と魅力と神秘に満ちあふれた古代文明だったということです。
■
しかし、繁栄を誇ったマヤ文明は、突然、謎の消失をとげてしまいます。西暦1492年、コロンブスがアメリカ大陸を発見した時には、すでにマヤ文明の大部分は密林の彼方に消え失せた後でした。(ここまで読めばわかるはずですが、コロンブスの行為は、実は歴史の教科書に書かれているような「発見」などというものではなく、その後の残忍な植民地支配が証明したように、ヨーロッパ文明と新大陸文明との「不幸な遭遇」にすぎなかったのです)
新大陸発見当時、メキシコではマヤ文明の影響をうけたアステカ帝国が栄えていました。その最後の古代帝国アステカでさえ、ヨーロッパ大陸をしのぐ文明を誇っていました。琵琶湖の5倍ほどの広さを持つ湖の中の島に、巨石を組んでつくられた水上都市(現在のメキシコ・シティ)。その壮麗な都を目にしたスペインの征服者(コンキスタドール)の司令官コルテスは、こんな手紙を本国にしたためています。
「自分たちは魔法をかけられて夢を見ているに違いない。というのも、信じられないことに、アステカの都は我がスペインの都グラナダの規模にして優に10倍、その華麗さはまるで天国にいるとしか思えないほどだ」
それほど高度で強大な文明を持つアステカ帝国が、なぜコルテス率いる総勢150名たらずのスペイン兵の前に簡単に滅び去ったのか。
さらに言うなら、アステカ以上の文明と高度な科学を誇ったマヤ文明が、なぜスペイン人の到来以前に謎の消失をとげたのか──。
それはいまでも、歴史の大きな謎とされています。そして、いま考古学者たちが考えているその答えが「予言の存在」なのです。
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マヤ文明はまさに「時間の文明」でした。時間の神秘の謎を解き、未来の時間を手に入れること、つまり、予言こそが、マヤ文明がそのもてる全知全能と富と力と心血のすべてを注いだ対象だったのです。巨大ピラミッドも高度な天文学も0(ゼロ)の発見に象徴される高等数学も、すべては正確な未来を予知するために発明された道具だったのです。
科学技術が高度に進んだ現代では、予言などというものは迷信の一種としか扱われていません。しかし、現代人がコンピュータとカオス理論を操って未来を予知しようと企てているように、当時のマヤの人々にとっては、予言の術こそが最高に高度なテクノロジーだったのです。
そして、初めに書いたとおり──現代科学の粋を集めたスーパーコンピュータでさえ、明日の天気を60パーセント程度の確率でしか予知できないのに比べ──驚くべきことに、マヤの予言は(少なくともいくつかの歴史的事件については)正確な未来の予知に成功していたのです。
古代マヤ人たちが遺した重要な考古学資料の中に、『チラム・バラムの聖なる予言』(単に『チラム・バラムの予言』とも言う)という聖なる書物(アナーテ)があります。
チラム・バラムとは、古代マヤの最高位の予言者に与えられる称号で、その書物は歴代チラム・バラムが告げた予言の言葉を記したものです。「白人のアメリカ大陸到来」を予言した言葉は、この聖なる書物の中にもあります。
たとえば、9世紀に実在した「ナワト」という名のチラム・バラムは、こう告げていました。
「カトゥン4アハウの年、それは大激変が起きる時。イッツア(マヤ)の人々が木の下、藪の下、蔓の下をくぐり、苦しむのはいつもこのカトゥンの時である。そして、カトゥン2アハウの1ベンの年、白い肌をして髪を長くのばし赤い髭をはやした神の名を名乗る者たちが、東方の海よりやって来るだろう」
カトゥンとかアハウとかベンというのは、マヤの暦で使われる年月を表わす言葉で、現在私たちが使っている年や月、曜日、日といった言葉に当たります。
そして、カトゥン4アハウの年とは、西暦に直すと、1481年から1500年の期間。カトゥン2アハウの1ベンの年とは、1519年のことです。
コロンブスがアメリカ大陸に到達したのは、まさにカトゥン4アハウのちょうど真ん中の年(西暦1492年)。そして、「白い肌をして髪を長くのばし赤い髭をはやした」スペイン兵たちが「キリスト教の布教」を名目に「東の海岸」よりアステカ帝国に攻め込んで来たのは、まさに2アハウの1ベンの年(西暦1519年)だったのです。
マヤの人々は褐色の肌をもっており、髭をはやす風習もなく、「白い肌をして髭をはやした人間」がこの世界に存在しているなどということは、彼らの想像を超えたものでした。
にもかかわらず、マヤの予言者たちは、白い肌をもつ者たちの到来とその時期(西暦1492年のコロンブスの到来と1519年からのスペイン兵による侵略)、そして場所(東の海岸より上陸してくること)、さらには彼らの目的(キリスト教の布教)さえも正確に予言していたのです。
このような予言が、少なくとも600年間にわたり、歴代チラム・バラムの口から伝えられつづけました。運命の西暦1519年が近づくにつれ、予言の言葉はだんだん詳細になっていきます。ついに西暦1519年、最期のチラム・バラムが「すでに白い肌の人々は東方の海より上陸している。運命は避けられない」と告げた時、すでに人々が去り廃墟と化していた都にまだ残っていた最後のマヤ人たちも、異教の神との衝突を避け、運命を受け入れて、ついに密林の深奥へと姿を消しました。こうしてマヤ文明は、歴史の表舞台から完全に消えていったのです。
それにしてもなぜこれほどまでに正確な予言が可能だったのでしょう。
マヤの予言者は述べています。
「神はその御手で、過去の時間の中に密かに未来を記された。すなわち、未来とは人の手が記さなかった過去であり、予言とは空白の過去に隠された神の言葉を宇宙の原理を借りて、読み解く業なのである」
そう、マヤの予言者の言葉にしたがえば、過去から未来にわたる時間の神秘を操る「宇宙の原理」こそ、予言の鍵を握るものなのです。
そのマヤ文明が発見した「宇宙の原理」に形を与えたもの、それがマヤ文明の最大にして最高の発明品である究極の予言テクノロジー、『マヤ・カレンダー』なのです。
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マヤとは周期=時間という意味だ、ということは書きました。では、時間とは何でしょう。
私たち現代人にとって、世紀や年、月や日といったものは、時の歩みを計る単なる単位、電子時計の針が刻む機械的リズムにすぎません。
そこには雨や風のリズムはなく、まして天空の星々が刻む大宇宙の鼓動などありません。生命のない機械的な時間が流れているだけです。そこから見えるのは、大地や宇宙のリズムと切り離され、この地上で孤独に生きる現代人類の姿です。
もし私たち人類が、コンピュータゲームで遊ぶように脳が作りだしたバーチャル世界の中だけで生きていけるなら、コンピュータが刻む機械的時間を知るだけで充分かもしれません。
しかし、どんなに時間が経とうと、人間も他の生物同様、大地から生まれた存在であるという宿命から逃れることはできないのです。試験管ベービーも成長するためには、大地で育った食物を必要とし、スーパーコンピュータでさえ、大地から採掘したシリコン(珪素)なしには存在することすらできません。
そして、この大地は宇宙から生まれたものなのです。宇宙なしに人間は存在することはできず、宇宙の時間の流れを知ることなしに未来を知ることは不可能なのです。
これは、決して抽象的な話ではなくリアルな事実です。
たとえば「景気と不景気はある周期をもって循環している」という景気循環説で有名なイギリスの経済学者ジュボンズは、景気循環の最大の原因に太陽の黒点運動をあげました。
「太陽の活動状態を表わす黒点活動は、11年と22年と55年の3つのサイクルで盛衰を繰り返している。当然、黒点運動によって生まれる太陽風(地球に吹きつける磁気嵐のこと)の強さもそのサイクルにしたがうため、太陽活動に強く影響される動植物の生育もそのサイクルに支配されることになり、結果として世の中に好・不況の波が起きる」
というわけです。さらに微生物学の最先端では、
「インフルエンザの流行が周期的に繰り返されるのは、彗星がウイルスを運んでくるからだ」
との説が最近になって、多数の研究者の間でとりざたされるようになり、いま調査が進められている最中です。
このように人間と宇宙は、見えないところで深く関わり合っているのです。しかし、そのことに気づいている人がどれだけいるでしょう。
そんな宇宙のリズムを忘れてしまった現代人が、いくら最強のスーパーコンピュータと最先端のカオス理論を駆使して経済動向などの予知を企てようと、結局、予測が外れてしまうのは当然と言えます。
マヤ文明は、その真実に気づいていました。人間の鼓動は大地の鼓動に支配され、大地の鼓動は宇宙の鼓動に支配されていることを。
マヤ文明は、太陽風の存在までは知らなかったかもしれません。しかし、太陽の動きが大地に影響を与え、そのために起きる雨や風や干ばつなどが植物の成長を左右し、それが獣たちの生育に影響を及ぼし、その結果が自分たち人間の営みのすべて、社会の混乱から一人ひとりの心のありようまでのすべてを支配しているということを、マヤ人たちは深く理解していたのです。
もちろん、大地を支配しているのは太陽だけではありません。月も、金星も、その他の星々を含む大宇宙のすべてが、この大地を通して人間の運命を支配しているのです。
そのことに気づいた時、マヤ人は考えました。
「──ならば大宇宙の鼓動(=リズム)を知ることができれば、あらゆるものの鼓動(=リズム)を知ることが可能となるだろう」
こうして大宇宙のリズム(=天空の動き)から、地上の未来を読み解くために発明されたのが『マヤ・カレンダー』なのです。
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「すぐにでも自分の運命と性格について知りたい」という人は、いますぐ自分のデータを入力しましょう。もしあなたに(古代マヤの)予言の言葉を読み解く力があるなら、そこにあなたの未来に関する重大な秘密と、その未来を自分のものに変える術が記されているのがわかるでしょう。
でも、予言の言葉を読み解くことに不慣れな人、もう少し占いの業の深い部分について知りたいという人、さらには「予言という名の古代文明のテクノロジー」について興味があるという人……そのような人にはこの『マヤ占い』(予言のテクノロジー)を発明した古代マヤ文明について知ることをお勧めします。
マヤの予言者は次のような意味のことを述べています。
「時間とは棒のように直線的に進歩するものではない。寄せては返す波のように、過去と未来はある法則に基づいて繰り返すものである。すなわち、未来の中に過去があり、過去の中に未来があるのだ」
その言葉にしたがうなら、未来を読み解く鍵は、古代の時間の中に隠されているのです。
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もっとも、こう思う人も多いでしょう。
「過去と未来は繰り返す、だなんて、マヤ人はなんて無知なんだ。」
当然です。時間は過去から未来へ一直線に進むものというのが、私たち現代人の常識だからです。しかし、本当に無知の一言で片づけられるでしょうか。
たとえば、マヤ文明は「過去に起きた大変事は必ず未来に繰り返される」との考えから、その繰り返しの周期を知るために様々な暦を発明していました。その1つに考古学者が『カレンダー・ラウンド』と呼ぶ『52年周期』をもつ暦があります。これは、『月の暦』の260日と『太陽の暦』の365日の最小公倍数の1万8980日=52年ごとに1つの時代が終わり、新しい時代が始まるというマヤ人の人々の考え方があらわされたものです。
この52年周期の暦を使って現在の日本を見ると、どうなるでしょう。
たとえば1997年、それまで誰も予想しなかった大銀行や大証券会社の破綻がつづいた年です。それを日本経済の敗北ととらえたマスコミは「日本の第二の敗戦の年」と騒ぎ、逆に金融ビッグバンによる外国金融機関の日本進出を「大改革」のチャンスと見る評論家たちは「第三の開国の年」と名づけました。
しかし、マヤ人ならきっとあわてはしなかったでしょう。
マヤの52年周期の暦を使って読み解くなら、その1997年が日本にとって「敗戦」「開国」「大改革」の年となることは、あらかじめ予測できていたはずだからです。
なぜなら1997年の52年前の1945年は、日本が太平洋戦争に破れた「敗戦の年」でした。そのさらに52年前の1893年は、日本と英国の間で新しい条約を結ぶことが決まり、幕府が外国と結んだ不平等条約を廃止することに初めて成功した年、日本が世界の列強の仲間へと脱皮しはじめた「大改革」の年だったのです。
さらにその52年前の1841年は、イギリスとオランダの軍艦(黒船)が琉球・長崎に次々と現われ、そのためしかたなく幕府は外国船打ち払い令を事実上廃止、ついに「開国」への第一歩を踏み出した記念すべき年なのです。
つまり、日本がそれまで経験した「敗戦」「開国」「大改革」は、マヤの暦が示すとおり52年の周期で現われてきたのです。
これは、単なる歴史のいたずらか、稀にみる偶然の一致かもしれません。しかし、古代マヤの予言者たちは自分たちが発明したその様々な暦を使い、稀にみる偶然の一致と呼ぶにはあまりに高い確率で予言を的中させていました。
マヤ人は、コロンブスのアメリカ大陸発見さえ予言していたのです。
雑学の世界
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