BIG MANパニックレポート
1982年は食糧戦争の幕開けになる
(小説 食糧危機 )
1982年2月。北極から張り出してきた寒気団はカナダを覆い尽くし、瞬く間に五大湖の上空に侵入した。
東京大手町のある総合商社10階。ミシシッピ川の凍結がケイロまで進んだという情報が入って以来、穀物セクションの部屋は殺気立っている。
「荷が川を下りてこない以上、契約通りの受け渡しは困難ですよ。現地の穀物商社等は、いつ不可抗力宣言を出して受け渡しを送らせようかという談合を始めたとの情報もあるくらいです。」
日本の食料品店の店頭から豆腐屋油揚げが姿を消すのに時間はかからなかった。つい昨日までスーパーの目玉商品に使われていたサラダ油が、客1人に一缶という割り当て販売になった。食用油不足から営業時間の短縮を余儀なくされた天ぷら屋が続出。肉は急に安くなった。
エサ不足とエサ価格急騰で、畜産業者は豚などを買い続けるのは難しくなって、どんどん屠殺しているからだ。
「消費者に朗報」などと喜んでいられるのは短い間だ。まもなく供給がガタ減りし、肉は前よりも高嶺の花になる。大量屠殺の後遺症はまず1年は残る。
食料危機という声が高まるにつれて色々な物の出周りが少なくなってきた。社会不安の高まりを恐れて政府は売り惜しみ買い占め防止法(投機防止法)をちらつかせる必要を感じ始めた。
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以上はフィクションであるが、全くの作り事ではない。
1977年のミシシッピー川凍結はこれと似たような状況を作り出した。カーター前大統領は陸軍工作兵を送り出し、凍結した川をダイナマイトで砕いて穀物を積んだバージ(はしけ)が通れるように手を打った。
それでも正常化するまでに2ヶ月以上かかっている。
日本国内では関連商品が高騰し、大混乱となった。
当時は3ヶ月以上の再婚あったものの、第一次石油危機の記憶が生々しかったためか、パニック寸前までいった。
先ほどの商社マンの話ではないが、現在の在庫は1ヶ月分ぐらいしかない。1977年以上に危険な状態にあるわけだ。
例えば日本の大豆の輸入量440tの96%がアメリカ。しかもアメリカからの船積みの70%はミシシッピ川-ガルフを経由している。 ミシシッピ川は日本の台所に直結しているというわけだ。
現在の日本の食料状況は、輸入に占めるアメリカの比率もさることながら、自給率も低く、海外市場の演歌をもろに受ける体質になっている。
日本の米の年間生産量は約1300万t。
これに対して、小麦、大麦、大豆、トウモロコシの年間輸入量は約2800万tと、米生産量の約2.2倍である。穀物自給率はわずか34%。
農政審議会の見通しでは、1990年には30%に減り、以後じりじりと自給率は落ちていく。
「不測の事態」が起きて、輸入が減ったらどうなるか。一人当たりの栄養水準で見ていくとわかりやすい。
現在日本人の1日あたりの栄養水準は2500カロリー。もし輸入が現在の3分の2に減少しとしたら、2151カロリーと、昭和30年代初めの水準になる。輸入が半分に減った場合は1914カロリーしか摂取できず、まだ戦後間もなく、あちこちにやけあとが残っていた30年前に逆戻りしてしまうのだ。
「不測の事態」のうち、最も起こり得る可能性が高いのはミシシッピ川凍結であるが、日本の日本にとっての影響は軽い方であろう。一時的なパニック状態は起きるものの、それは時間が解決してくれるだろう。
1981年11月16日。ソ連共産党中央委員会総会。
ブレジネフ書記長は、外交・軍事面で、ソビエト連邦はアメリカに対して優勢を保っていると得意満面で演説を続け、出席者は万雷の拍手を送った。ところが食料生産の項目に入ると、書記長の口調はにわかに弱々しいものになった。1981年の穀物生産目標2億3500万t。ところが実際の収穫量は1億7000万tを下回る成績になってしまったのだ。3年連続の不作であり、特に1981年は最近では最悪と言われた1975年の1億3000万t以来の低い収穫量である。
いつしかブレジネフの口調は哀願調になっている。
「ソビエト連邦、穀物不足を公式に認める」-ニュースは世界中を駆け巡り、シカゴの穀物相場は上伸、ロンドン・チューリッヒの金相場は、1トロイオンス400ドル台を割り込んだ。ともにソビエトは穀物の大量輸入に出る必要があるという予想に反応したものだ。
ソビエトの投資外貨事情では、金を売らなくては穀物は買えないはずであり、実際、このところ売主不明の金売却量が増えている。
スイスの個人銀行は顧客に金の売りを指示した。シカゴのメリルリンチ社は顧客に大豆とうもろこしの買いを支持した。史上最高の豊作で停滞している市場にとって、ソビエトの不足は願ってもないカンフル剤になる。
「4万トンでもソ連に売ってやるぞ」、相場の上げはそう叫んでいるようにも見えた。
アメリカ農務省は1981年~1981年(1981年10月~1982年9月)のあいだに曽木とは4000万tの穀物を輸入すると予想し、アメリカから2000万tは買うだろうと見ている。
ところが1981年から1982年12月の船積み物を1000万円まで買い進んだところでソビエトは買付を見送って、アルゼンチン、ブラジル、カナダなどアメリカ以外の穀物生産国での買い付けを急ぎ始めた。
そして12月13日、ポーランドに戒厳令が施行され、自主管理労働組合「連帯」の弾圧が開始された。ヤルゼルスキ軍事政権の後ろにはソビエトの影がちらつく。
アメリカは対ソビエト制裁に乗り出すだろう。穀物禁輸で締め付けてくる可能性がある。そうした事態に備えるには、アメリカからの輸入依存度を下げておかなければならない。
昨年末アメリカレーガン大統領が発表した対ソ連制裁では、穀物禁輸は見送られたが、今後の情勢次第では穀物禁輸もあり得ると威嚇している。
穀物が外交特にソビエトとの関係で有効な武器になるとアメリカが気がついたのは、1972年から1973年にかけて、ソビエトが隠密裏に大量のアメリカ産穀物を隠密に買い付けたことがきっかけであった。当時のニクソン大統領、キッシンジャー特別補佐官は、早速国務省、CIAにソ連の農業実態を調査させるチーム作成を命令、報告と偵察衛星による写真分析を重ね合わせてみた結論は、
「ソビエトの農業生産は伸び悩みがはっきりしており、増え続ける需要を自力で賄いきれなくなっている。常に大量輸入が必要な状態になってきている。」
ニクソン・キッシンジャーがソビエトとの交渉に穀物取引をを絡み始めたのは言うまでもない。
-雑誌BIG MAN 1982年3月号
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主要生産国の生産量
1979年度
アメリカ 29900万t
中国 27900万t
EC 14800万t
ソ連 17400万t
インド 12600万t
カナダ 3600万t
ブラジル 3300万t
アルゼンチン 1900万t
オーストラリア 2300万t
-雑誌BIG MAN 1982年3月号
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