旧約聖書に預言されていた日本の使命
投稿者:Legacy of Ashesの管理人
投稿日:2015年 1月24日(土)16時31分7秒
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関連記事:ツロと日本
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地の果て日本へ
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本編は昨年末(平成22年)に書き終わっていた。
けれど何か大切なことを書き忘れている気がして、公開する際に「完成」のボタンを押せずにいた。
書き忘れているのは、旧約聖書の視点から見た、「新約聖書・ローマ帝国・ヨーロッパ・ユダヤ人・キリスト教・聖パウロ・そしてイエスキリスト」の位置関係の解説ではないのかと思い、
本編の付録として、「天井裏のイエスキリスト」を書きあげた。
その小説の中で、「この小説は末日の直前に明らかにされるよ」と、イエスキリストに語らせ公開した。
そして公開の3時間後に東日本巨大地震が発生したのだった。
当初、今回の震災が旧約聖書に預言されていたことを書き忘れていたのかと思い、日本に関する預言を再検証してみた。
エゼキエル書のツロに関する預言、26章19節~21を見てみよう。
立ち読み部分に記述したが、イザヤ書ではツロ=日本となっている。
したがってエゼキエル書に記載されたツロに関する預言も日本を語っているかも知れない。
実に、主ヤハウェイはこう言った、
「わたしがお前を住む人のいない町々のように廃墟の町とするとき、大水で覆う混沌の海をお前に向かって来らせるとき、
わたしはお前を穴に下る者たち(死者)と共に、永遠の民(死者)のところへ下らせる。
穴に下る者たちと共に、永遠の廃墟にも似た地の底にお前を住まわせる。
お前が再び生者の地に立つことがないためである。わたしはお前を恐怖に渡し、お前は消えうせる。
お前は尋ね求められても、もはや永遠に見いだされまい。-とは主ヤハウェイの御告げ」
(旧約聖書翻訳委員会訳)
他にもツロに関する気になる聖句は色々ある。
一例をあげると、日本聖書協会訳によるエゼキエル書26章11節には「汝の栄の柱地にたふるべし」とある。
栄の柱が、日本の繁栄を支えてきた福島第一原発と考えるならば、「東風がお前を打ち砕いたのだ」(エゼキエル書27章26節)が、
東風による放射能の内陸拡散を意味することとなる。
結論を言うと、全体の流れからエゼキエル書は今回の災害を預言してはいない。
災害で亡くなられた方々には罪はなく、神によって被災を受けさせられるいわれはない。
詳細は煩雑になるので書かないが、むしろエゼキエル書に預言されたツロ=韓国と解釈した方が当てはまるように思われるくらいだ。
わたしはエゼキエル書を日本とツロの「両義預言」とは認めない。
とはいえ、イザヤ書に預言されたツロ=日本との解釈をしてるのは私だけかもしれないが。
なにを書き忘れていたのか振り出しに戻った。
そんな時、原子力安全・保安院と東電のずさんな管理体制が続々と明らかにされていった。
武田邦彦中部大学教授がYou Tube上で語った「原子力保安院の大ウソ暴露」では、武田氏がウラン濃縮研究所の所長だったときの経験談が公開されている。
原子力発電所の配管ミスを武田氏が見つけた時の話である。
「このままだと事故が発生すると放射能が海に流出する」と、原子力安全・保安院にパイプの撤去を申し出たところ、
「国が認可したものは改造できない」との理由で却下されたそうである。武田氏によると、原子力安全・保安院の仕事の中身は「自分の責任は認めない」ことにあるという。
なにが狂っているのだろうか。
そこには「官僚主義」の一言では片付けられない根の深い問題が横たわっている。
ここに至って、「旧約聖書に預言されていた日本の使命」になにが足りなかったのかが解った。
旧約聖書に預言されていたのは、日本に巣くっていた「国民を奴隷化する資産家たち」「工作員」「中国に進出した日本企業」が日本から逃げ出した後、
残された日本人と海外から移住してくる日系人とが力を合わせて新しい社会を築くという内容である。
そして本編に足りなかったのは、その「新しい社会を築く」人々が、戦うべき相手だったのだ。
旧約聖書が明らかにした「敵」は、「官僚主義」ではない。「官僚主義」を蔓延させた「何か」である。
それを浄化させない限り、新しい社会はやってこない。
その敵とは、ロックフェラーやロスチャイルド、工作員といった組織ではない。
共産主義やイスラム教という思想でもなく、まして悪魔などという訳のわからない者でもない。
旧約聖書とキリストが明らかにした我々の敵は、「早期教育」である。
ただし、早生(わせ)の子が飛び級をして、中学生なのに大学卒の資格を取ることを「早期教育」とは言わない。
「早期教育」とは、その子の発達段階を無視して教育することである。
人生はマラソンなのに、いきなり全速力で走り続けることを求めるが「早期教育」なのだ。
早期教育された人間は、「最大公約数的模範解答」の「記憶マシン」と化し、ひとの心が育たないのだ。
以下の本編は平成22年末から一切手を加えていないので、ご覧頂けたならば、
私が思いつきで「聖書によると、日本の敵は早期教育である」との結論を出したのではないことを理解して頂けると思う。
被災された子供たちが、自分を信じることを願って、「完成」のボタンを押します。
平成23年4月3日
本書は旧約聖書に記述された日本に対する預言を読み解くことにより、これからの日本と世界に何が起こるのかを明らかにしていく預言解説書である。
「旧約聖書に日本の近未来が預言されていた」などという話は初耳だと思う。
初耳以前に、そもそも旧約聖書と日本に何の関わりがあるのだと、いぶかることだろう。
ところが、関わりがあるのだ。
いや、関わりどころではない。
旧約聖書の預言は近未来の日本に集約されていくからだ。
旧約聖書には大きな「謎」がある
「失われた十支族」という謎である。
旧約聖書は「イスラエル民族=アブラハムから分かれた十二支族」に対して書かれた書物である。
その十二支族のうち、十支族が聖書の歴史から忽然と姿を消したのだ。
その残された二部族の末裔がユダヤ人である。したがってユダヤ人国家であるイスラエルは、兄弟である十支族を現在進行形で捜索中である。
そして彼らの探索は日本に向けられている。
「失われた十支族」は、日本に来たのではないのか」と、ユダヤ人は思っている。
「日ユ同祖論」で検索を掛ければ26000件余りヒットするので詳細は避けるが、
その共通点は「言語」「文字」「風習」等多肢にわたり、ゾロゾロ出てくるからだ。
「だからどうなの」と思われるかもしれない。
「日本は雑多な人種の終着駅なのだから、ユダヤ人と共通の祖先が日本にたどり着いたとしても不思議ではない。だからどうなの」と…
後述するが、聖書の歴史に残されたユダヤ人を含む二支族に比べ、消えた十支族、
特にマナセ族とエフライム族に対する「祝福」は比べ物にならないほど豊かで多い。
祝福文を見る限り、マナセ族とエフライム族が旧約聖書の主人公なのだ。けれど、主人公である十支族は聖書の歴史から忽然と姿を消した。
主人公がいつの間にか、何の説明もなく消えてしまったのだ。
だからこそ、「消えた十支族」は謎とされている。
もし失われた十支族が日本に来たのであれば、旧約聖書は日本に対する書物と言っても過言ではないことになる。
「だからどうなの」で済むことではない。
聖書を読んだことのない方でも、聖書が分厚い書物であることは知っていることだろう。
旧約聖書は1326ページ、一ページ当たりの文字数は1200、新約聖書は409ページである。
旧約聖書の「預言書」だけでも384ページに及ぶ。そこに書かれた内容をすべて細かく解説するためには、
ブリタニカ百科事典全巻に相当するボリュームの情報量でも足りないことだろう。
しかし、「日本に関連する預言」に限定するならば可能である。
本書が解き明かすのは、基本的に「日本に関連する預言」という検証可能範囲に限定することにする。
問題なのは、旧約聖書に日本が預言されていることをどのようにして検証できるかである。
逆算して考えればよい。つまり、聖書の預言が正しく、「神」から来ているのであれば、当然世界に大きな影響を与えている日本の未来がそこに描かれているはずなのだ。
だとしたら、日本の歴史上最大の事件である1945年の終戦について、その理由も含めて預言されているはずだ。
1945年、日本はただ一国で世界中を敵に回し、戦争に負けた。
それは第二次世界大戦終焉の年でもあるし、なにより人類に初めて核兵器が使用された年でもあるのだ。
聖書の預言を検証するにあたって、1945年がキーとなる。
道路標識は目的地まで誘導するためにある。
けれど目的地に近付くと今まで連続していた標識が途切れ、道に迷ってしまうことがある。
最後まで責任を持って目的地を示せよと言いたい。
同様に、聖書の預言は「目的地を示す看板」である。
聖書の預言が神からの「目的地を示す看板」であるならば、道が交差する曲がり角には必ず看板が立てられているはずだ。
だとしたら、近代史にとって最も重要な1945年という、大きな道が三つ交差する曲がり角を、ピンポイントで聖書が特定していなければ、預言書としての聖書の威厳は保たれない。
私は三十年前、聖書が天地創造の神からの預言書であると仮定(命題)して考えた。
そしてどこかに日本の命運が書かれているはずだとの思いから、聖書を虱潰しに調べた。
その結果、イザヤ書に預言されている「古代貿易都市ツロ」に行き着いた。
当時はツロと日本との、空恐ろしいまでの類似性に当然誰かが気づいているだろうと思っていたのだが、
平成二十二年現在、いまだツロを通じて日本の命運が描かれているとの考えに出会ってはいない。
第一章「なぜ故郷を捨て、日本へ向かったのか」では、イスラエル民族の一部が日本を目指さなければならなかった「理由」を解き明かす。
第二章「ツロについての託宣」では、イザヤ書に描かれた「ツロ」が、1945年、終戦時の日本を示していることを明らかにする。
第三章「祟り神」では、旧約聖書の「怒れる神」が、何者なのかについて。
第四章「バビロンについての託宣」では、「1945年」をキーとして、核兵器により一夜にして滅ぶアメリカと、分裂すると預言された中国の運命について。
第五章「幼形成熟の果てにあるもの」では、「旧約聖書」に描かれている人類の未来はどこへ向かうのかについて。
第六章「日系人」では、日本がどのようにして末日を乗り越えるのかについて。
終章「安息日の主」では、我々が存在する意味について考察する。
関連記事:ツロと日本
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三大預言書といえば、旧約聖書のイザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書である。
そしてツロ(ティルス)についてはイザヤ書とエゼキエル書に預言されている。
ただしエゼキエル書に預言されたツロは、ツロのみに対する預言であり、日本との関連はないと考える。
問題なのは、難解とされるイザヤ書に預言されたツロである。
なぜイザヤ書が難解とされているのかといえば、聖書学でいうところの「両義預言」となっているからだ。
イザヤの時代から見た近未来の有様(ツロの没落)が、はるか遠い未来に起る出来事(日本の終戦時)のひな型となっている。
つまりツロと日本が入れ子になって預言されているので、すべてが日本には当てはまらないし、
逆にツロに当てはまらない個所もある。ただしツロと日本とは奇妙にリンクしている。
エゼキエル書はツロを「あなたの境は海の中にあり」「海の入り口に住んで、多くの海沿いの国々の民の商人である」(エゼ27章3、4)といっているが、
それはそのまま日本に当てはまる。地球儀を眺めるまでもなく、
日本は貿易国としてアジア大陸の入り口に位置しているのだ。
ツロは加工貿易と輸出入品の大きな集散地として栄華を極めた古代フェニキアの都市で、
特にティルス紫の長い衣には最高の値が付き、貴族たちはツロの高価な織物を競って求めたという。
日本においては絹製品が幕末の開港後から終戦までの間、重要な輸出品だったことを考え併せると、オーバーラップしないだろうか。
さらにこの都市は軍事面での強さも備えていた。
スプラグ・デ・カンプによれば
「フェニキア人は特に戦争が好きだったわけではないが、都市の守備にかけては熱狂的なまでの勇敢さと、頑強さを示した。
そうした特質と海軍力が相まって、ティルス(ツロ)人は、当時最強のアッシリア軍の攻撃にも最後まで持ちこたえたという。
イタリヤ、ドイツが降伏しても、最後までアメリカと戦い続けていた日本とオーバーラップしないだろうか。
奇妙なんてもんじゃない。紀元前571年と紀元1945年、ツロと日本という地球儀で3分の1も隔てた場所がこれからイザヤの預言により同期してゆくのだ。
前章では、「マナセの部族が、東の果てに国を作ろうとして向かった先が日本である」事と、
「預言は成就する」との二つの命題をたてて話を進めてきた。
本章ではそれに加えて、「イザヤ書に預言されているツロは、終戦時の日本である」との命題を加えて検証していく。
地の果て日本へ
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時は出エジプトの時代。
①~④の時代から約500年経っているのだから、ヤコブの十二人の息子たちは死に、その子孫である十二支族に対する祝福文である。
神の人モーセは死ぬ前にイスラエルの十二部族を祝福した。以下、申命記33章13節から17節
ヨセフについては言った、
「どうぞ主が彼の地を祝福されるように。
上なる天の賜物と露、
下に横たわる淵の賜物、
日によって産する貴い賜物、
月によって生ずる尊い賜物、
いにしえの山々の産する賜物、-
とこしえの丘の尊い賜物、
地とそれに満ちる尊い賜物、
しばの中におられた者の恵みが、
ヨセフの頭に臨み、
その兄弟たちの君たる者の頭の頂にくだるように。
彼の牛のういごは威厳があり、
その角は野牛の角のよう、
これをもって国々の民をことごとく突き倒し、
地のはてにまで及ぶ。
このような者はエフライムに幾万とあり、
またこのような者はマナセに幾千とある」
*④のヤコブの祝福(十二人の息子に対する祝福)に比べ、モーセの祝福(ヤコブの十二人の息子から派生した十二支族に対する祝福)は宇宙を語ってはいない。
はっきり言って、スケールが小さい。が、現実的でもあるのだ。
おそらく、当時マナセ族が上記の祝福を受けた時には、その祝福の意味がわからなかった事だろう。
けれどモーセから祝福を授かってから約600年後、上記の祝福がマナセ族にとって重要となる局面が生じる。
それは紀元前721年の出来事だ。
十支族の北イスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、捕虜としてアッシリアに連行されるという事件が起こる。
十支族は自分の国と財産を奪われ、アッシリアの奴隷となったのだ。
想像して頂きたい。
何もかも失ったマナセの支族に最後に残された希望の光は、アブラハム、ヤコブ、モーセから授かった祝福である。
アブラハムやヤコブからは、自分たちが繁栄するとの祝福を得た。
そしてモーセからはその具体的方法を指示されたのだ。
月や日は方角を表す。
太陽や月の昇る方向へ、「いにしえの山々」「とこしえの丘」を越えてゆくならば、いいことあるよという神からの約束である。
何も心配はいらない、邪魔する諸国民はあなたがた「野牛の角」で突き刺され、「地のはて」にたどりつくことができるとの祝福なのだ。
彼らは新天地を求めて日の昇る方角へ向かった。
イスラエルから東へ向かうとどこへたどりつくのだろうか。
そう、シルクロードの両端はイスラエルと日本なのだ。したがってイスラエルの地の果ては日本である。
地球儀をながめたならば解って頂けると思う。
日本の場所はとても特異な位置にあるのだ。
南北アメリカ大陸やオーストラリア大陸を除いたほとんどの可住地域から、日の昇る方向を目指し続けて移動すれば、やがて日本に行き着く。
マナセの部族は日の出る方角に夢を託し、モーセの祝福文に従って旅立った。
そしてたどり着いた日本は災害の地であった。
地震、噴火、なにより毎年のように襲ってくる台風。
どんな災害にもめげず、常に希望を持ち続け、子孫をつないでいったのが我々のご先祖たちなのだ。
自分が不幸な目にあっても、それを笑いながらつい話してしまうのは、ユダヤ人と日本人だけだと聞いたことがある。
ユダヤ人はその迫害の歴史にめげず、子孫をつないでいった。
ユダヤ人も日本人も、自分の不幸を笑えるバイタリティがなければ生き延びることはできなかったのだ。
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